今回はポジティブになれる前のお話なのでちょっぴりトーンダウンしてます…笑
そんなにいつも明るくなんていられないですし、ここまで語ることができるのに色々あったんです…笑
パリへの修学旅行。
その日、私は空港にも、飛行機にもいませんでした。
代わりにいたのは、静かな学校の図書室。友達が旅に出ているあいだ、私はひとり、教科書を開いていました。
私の学校の図書室は窓側がとても大きな窓で素敵な景色がひろがります。飛行機を見る度に「私はこれに乗ってパリに行くんだ!」と思っていたのが、「飛行機なんて見たくもない!」に変わって、窓側に背を向けて勉強をしていました。
病気のことも、不安も、言葉にはできなかったけれど、なぜかその時間が私にとっては「自分と向き合う」時間だったように思います。特に、広い教室で1人で食べるお弁当は向き合う時間でありつつも、悲しみを上昇させました。
そんな中で毎日、数学の先生が図書室に来てくれました。
とても厳しくて、どこか近寄りがたい「怖いおじいちゃん先生」だと思っていたけれど、テストの返却時に書かれたコメントを見て、涙が出そうになったのを覚えています。
「図書室での努力が結果に表れましたね。」
この一言が、私の心に深く残りました。
私は数学Ⅱがとても苦手で、それなのに上のクラスにいて、学習についていけていませんでした。「応用はできるのに基本ができていない!」と先生によく言われていました笑 初めて先生に褒められた言葉でした。
「こういうふうに、人の背中を押せる大人になりたい。入院する度優しくしてくれた看護師さん達のように寄り添える大人にもなりたい。」
そう思って、私は福祉の道に進むことを決めました。
大学での教授との出会いもあり、小学校で支援を必要とする発達障がいのこどもをサポートする実習に1年間通いました。
その経験から新卒で働き始めたのは、放課後等デイサービスと児童発達支援の療育の現場でした。
発達に特性のあるこども達と関わる中で、こどもの「できた!」の笑顔を見るたびに、私の方が力をもらっていました。
その後、未就学児についても学びたいと思い、児童発達支援センターに転職。
発達や福祉の専門的なことを学びながら、より重い支援が必要なこども達や保護者の方と向き合う日々は、決して簡単ではありませんでした。
でも、「ひとりひとりが大切な存在」だと毎日教えてくれる、かけがえのない時間でもありました。
ただ、心と体は、思っていた以上に疲れていたのかもしれません。
現場の忙しさや上司との人間関係の中で、知らず知らずのうちにストレスが積み重なっていました。
気づけば、1年に2回から5回は入退院を繰り返すようになり、ある日とうとう担当医が涙を流し、「ごめんね、もう手術しかないと思う。全部の治療をやり尽くしたの。」と言われて—そのまま救急車で転院することになりました。
入院する度「おかえりとは言いたくなかったよ…」と言いつつも優しくしてくれる看護師さん達。毎回退院する度におひとりずつにお手紙を書いていました。

そんな看護師さん達も涙を流しつつお見送りしてくれました。毎日来てくれたお掃除のおばさんとも涙のお別れ。
これは無事に退院できた時に撮っていた写真。私、退院する時にはお世話になった方のこと、その時の自分はどう思っていたかなどを忘れないために、人とよく写真を撮るんです…

「きっと良くなるからね。」と言って送り出してくれて、そのうち1人の看護師さんが「昨日ね、夢で見たの。大腸取ってよかったよ〜って笑顔で話してるまいちょを。きっとよくなるから!!」と話してくれたことが後に勇気を出させてくれました。

救急車の中では付き添いの素敵な男性医師が「僕の同僚も同じ病で大腸全摘しました。今は外科で元気に手術してお仕事してるし、患者さんに寄り添ってますよ!」と励ましてくれました。ずっと泣いていて、同乗した母もあの時はとても辛かったと言います。
連絡がきて身体の弱い80過ぎの祖父がわざわざ歩いて病院まで来てくれていたこと絶対に忘れません。コロナ禍で病室へは来られないのに、「まいちょが頑張っているのにゆっくりなんてできない。」と何時間も椅子に座っていてくれたそうです。全ての方に感謝で書きながらも泣きそうです…。

今思えば、無理をしすぎていた自分に、「もうがんばらなくていいよ」と身体が叫んでいたのかもしれません。
でも、あの時間があったからこそ、私は今、自分とちゃんと向き合えるようになったし、「弱さを知った自分だからこそできる支援」があると信じています。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
いつかこの経験が、誰かの支えになりますように。
そんな想いをこめて、これからもブログを続けていきます。